仮想自殺

わたしの心は空っぽである。
私の日記はもう地球のごみになってしまったのだ。

もっと痩せてこの世界に存在する私の面積も小さくなってそのまま消えてしまえばいいのに。

最近青年期の死について深く考えるようになった。学生運動が減った今の世の中で、思想による仮想的自殺はもはや時代遅れであろう。しかし身体的自傷に限界が来た時おそらく私には、思想に取り憑かれる狂った姿に圧倒され異常な程の憧れを抱くだろう。例えて言うなれば、社会主義の渦に自ら呑まれることを選んだ太宰や、強いモダニズム思想と命とを天秤にかけた三島など、当時の学生は思想の中に自分の存在価値を見出していた。
では私の存在価値は一体何処にあるのか。
私とは一体誰なのか。

鮮血を見て生を実感するように自分の存在は自身の肉体でしか表現出来ない。だから今日も生を孕んだ肉塊をより感じられる施しを自ら選択するのだ。決して傷つけるためだけの手段ではない。守る手段でもある。
しかしどんなに物理的な施しをしても満たされないことは気づいている。だからこそ思想による仮想自殺を期待する。何かの思想に縋っていれば、自分の真の存在価値など考えることがないのだ。

どの思想が私を鮮やかに殺してくれるだろうか。