踊り場

最後は子宮だった。悲しくて涙が出た。こんなに悲しいのに私は踊っていた。こんなに胸が張り裂けそうなほど苦しいのに、ゆっくりと本能が私を刺し殺していった。最後まで踊り場から逃れることは出来なかった。残酷な瞬間はとても美しいことを私だけが知っている。私は人間だった。何ひとつ言い訳のできない肉を削ぎ落とし、厭悪を買っては観客を呼ぶ。この繰り返しで私は生きている。
私の踊り場は汚い。いつも床が濡れていて今にも滑ってしまいそうだ。上手に踊れないから毎回泣きながら踊っている。それでもその滑稽な姿をみんなが笑ってくれるから、もっとみんなの気持ちを満たしたいと、今日も足を絡ませながら踊っている。


夢を見ていた。今回はいつもより長い悪夢だった。夢を見た後は何故かいつも匂いだけが残っていて、今日は黒くて甘い匂いがした。これは二番目に好きな匂いだ。
窓を開けると空はとってもいい天気で蝉が泣いていた。
七夕はもう終わってしまったけれど、この蝉が早く蛹に帰りますようにと太陽にこっそりお願いごとをした。もうひとつのお願いごとは、強欲にならないように我慢した。

明日は綺麗なお花を見つける夢が見たいな

絶望

愛とは、愛とは、
幸福とは。美とは。



私と貴方とは、


全て壊れてしまえば良い。もう十分私は耐えたのよ。現実に蔓延る醜い欲の塊に飽き飽きしたの。

違う。何が違うかって?今の精神に耐えられなくなったのでは無い。そう、この不条理な世界に私は殺されたのだ。綺麗とか醜いとかそういう概念をとっぱらって目に見えない存在に価値をつける行為は、今更どうでも良い。今私が求めているのは絶望だ。何故それを欲しているのかというとちゃんと理由がある。
それは、
こんなにもこんなにも愛しているのに、私が女である事実によって愛が愛でなくなったからである。
理解されなくて結構。この現実に耐えきれなくなった。
汚い、汚い。生きていられない。性を持って生まれた男と女の愛になるのが恐ろしい。そうではないはずなのに悔しくも、これが社会的事実になる。この事実に抗ってはいたものの、私が女であると自覚する度に吐き気がする。他者が男であることに罪はない。問題なのは、私が柔らかい肉を纏っていることである。


だから、私は私でしかない。
そして、貴方も貴方でしかない。
それ以上でも以下でもない。

即席の愛

醜さを美しいと思える瞬間を優しく包み込むことができたら、ひとは一生永遠になれるのに。美しい瞬間だけで形成される子宮に還ると、永遠がひとを鮮やかに殺してくれる。永遠の愛は、間断なく臍の緒を伝って宇宙から降り注がれた後、やがて灰になる。その灰をも美しさを帯びており、そしてまたあなたは永遠と為る。
そもそも永遠とはすごく美しく危険な存在である。その極地に達する時、ひとは永遠の真実を知るだろう。そして永遠の愛に気づくだろう。よって私は永遠である。

即席の愛は永遠ではない。永遠はそれを許さない。しかし、これは全てを愛する存在として矛盾しているわけなので、やはりまた、即席の愛を愛すだろう。永遠はすごく苦しんでいる。しかし醜さを愛することによって永遠は生きている。生かされている。これは人間的であるか否かは私には分からない。少なくとも他人からの理解はないであろう。

明日で私は19になる。自分の人生に向き合わなければいけない時間は非常に苦痛である。どうして生きていることが褒められずに、少しずつ重くなる十字架を背負って歳を重ねる瞬間だけが喜ばれるのだろうか。さらに贖罪の念に駆られるばかりである。私だけ知ることの許される儀式は自分を穏やかにしてくれる。幼少期に、おまえの居場所はここなのだと名前も知らぬあの人に教えられた時から私は時々あの歪んだ場所に帰らなければならない。


私が壊れないと醜さを認識できずに、私の美しさが永遠に守れないじゃないの。

時代と私

時代はうつり変わってゆく。
2021年3月11日。震災から11年経った。少しずつ街が変化して、今まで生活していた場所から人々が離れていく。私もこの11年で更に多くの経験をした。時代と共に変化していった。心と体が成長したのを実感する。しかし自分という存在そのものは何一つ変わらない。その事実に時々怯える時がある。変わっていく恐怖より変わらない恐怖の方が私にとってはすごく恐ろしい。

告白

性欲というものは穢らわしい。しかし私にもその穢いものを持っていたのだ。認めたくなかった。おじさんと同じ欲があるなんて許せない。ましてや少女だった私に突きつけられたむき出しの欲はずっと脳裏にこびりついて一生あの忌まわしい記憶が離れない。たまに夢に出てくる。すごく怖くて涙が出る。こんな事を知っている私は恥ずかしい人間であり、自分が惨めな気持ちになる。


私は醜い欲がなければもう生きていけなくなった。もう遅かった。自分を責めなければ生きていけない。私が撮られるのが悪いのだ。私がスカートなんか履くから悪いのだ。私が女の子だったから悪いのだ。


私は売った。自分の性欲が少女の時に出会ったおじさんと同じなのだと思うともっと汚したくなった。その時好きだった人に魅せる性欲がどうしても汚れて見えた。汚れてるはずなのに純粋な性欲だと言い聞かせてする性行為に後ろめたさを感じて申し訳なくなった。私のもつ性欲は綺麗ではないからここにいちゃいけないと思った。こんなことしちゃいけないと思った。

お風呂の壁に、心の中で死ねと書いた。彼は音楽関係の人で、彼の企画する小さな箱ライブに、大森靖子ちゃんを何度も呼んだり一緒に宅飲みしたりする事もあったらしい。私は偶然があまりにも皮肉で悔しかった。
ホテルの天井には大きな鏡があって私が映っていた。汚い私が映っていた。本当の私が映っていた。怖くなって涙が出て怖くなって息が出来なくなった。「大丈夫?」と声をかけてくれた。

そう、私は大丈夫。

私は大丈夫なのだ。何があっても大丈夫な人間なのだ。息が出来なくなっても自分でなんとかした。大丈夫という呪文を心の中で何度も唱え、何度も自分を慰めた。
私は憎まれるべき人間なのだ。


綺麗な性欲に私が触れる余地など皆無で私が全て悪いのだ。性欲は綺麗なものなんだと必死で信じた。然し理解できなかった。とても鋭くおぞましいものだと教えられ生きてきたから理解できなかった。

私は自分の性欲を受け入れなければいけない。今は少しずつだけど認めようと頑張っている。

どうして私の性欲が汚されなければいけなかったのか。どうして私でなければいけなかったのか。もうそんな思いをする女の子が出てきてほしくない。私みたいになってほしくない。すごく悲しい。

すごくすごくつらくて涙が出る。
私が穢いだけなのでどうか軽蔑してください。

自分を大切にしてほしいです。

(あくまでも半自叙伝!!!)

新しい街

幸せは残酷だ。
過去の悲しみも喜びも忘れてしまう。

新しいは残酷だ。
過去の古いものが捨てられてゆく。


私の新しい街は誰かの古い街。どんどん移り変わって残酷が増えていく。だけどその分新しい幸せも増えていく。そうやって私たちは生きていく。

わたしはみんなが忘れていく幸せを包んであげたい。

みんなしあわせになりますように。

SNSについて

現代の社会ではSNSの発達に伴い、私たちは情報過多の時代の渦中にいる。多くの人がInstagramTwitter、そしてFacebook等を利用して自分の存在や思考をそこで表現する。私も今こうして同様にSNSを活用して自分の考えを発信している。
私は最近あるひとつの疑問を持った。私たちにインターネットを遮断した時、SNSで発信していたように自己表現を行うことができるのか。正確に言うなれば、SNSで普段から自己発信している思考と生身の人間と向き合う時に生じる思考との間にギャップが生じないのか。
この疑問を持ったのにはきっかけがある。それは、横断歩道の前で「変人」という旗を掲げて今の政治について自ら考えを叫んでいるひとりの男の人がいた。周りの人間は彼を見ているだけで、私には、あの人には声をかけてはいけない。という雰囲気が周囲から感じられた。然し、もしこれがTwitterで同様の思考が呟かれていたならば少なくとも誰かがいいねを押して賛同していたかもしれない。。もしくはリプライをして考えの共有を求める人もいたかもしれない。
何故SNSでの思考の共有は簡単なのに、生身の人間となるとハードルが高くなるのか。
私が考えるSNSとは、自分を表現する場のきっかけにしか過ぎないと思う。そこで彼らの思考の断片を知ってからそこで初めて、その人をもっと知りたい、その人をもっと近くで感じたいと思うのが本当の意味での思考の共有ではないのかと考える。