綺麗だった少女の死。

まさに今日でした。今日のあの日、少女はどこかに行ってしまいました。


一概に皆とは言えないけれど、少女達は大人の女性になることへの憧れを強く持つでしょう。小さい頃は母がお化粧をする姿に憧れ、私もよく玩具のメイクセットで目の縁を不器用に彩りお姉さんになった気分で背伸びをしていました。そして少し成長すると思春期になり異性を意識し出します。しかしその境目には、女の子しか感じることの出来ない恐怖があるのです。

一日にも満たない一生分を捧げた私は、今振り返ればまだとても幼い学生でした。


簡単に捧げた訳ではありませんでした。私にとってはとても大きな覚悟でした。そして私の生涯をあげたいと思いました。小さな覚悟を預けた瞬間は何も怖くありませんでした。その時小学三年生の頃に経験した痴漢が頭に過りました。あの時の男と同じ欲求の対象になるのだと思うと気持ち悪くてたまりませんでした。たかが痴漢、しかし然れどです。幼かった私はその日の夜、夢にあの男が出てきて叫んだのを今でも覚えています。

しかし、思春期の私にも恋を経験することが出来ました。



頑なだったはずの無垢な少女はその日どこかへいってしまいました。

とても生暖かく、自分がついさっきまで少女であったことをすぐに忘れてしまいました。

善悪と生命倫理

7限目の倫理の授業にて。前回中国思想の分野で性善説性悪説を習った。私たち人間の性は善と悪のどちらなのだろう。もし悪であるのならばキリスト教の原罪と同じ思想である。そもそも善悪の基準とは何だろう。余計に分からなくなる。ちなみに私は性善説を信じている。キリスト思想を否定する気は無い。しかし今の私に原罪を背負うには少し重すぎる。せめて、お前という存在は美しくなんの穢れもないと誰か言ってくれ。そう願うばかりだ。
余談はここまでにして貴方は生命倫理について考えたことがあるだろうか。代理出産安楽死、現在多くの価値観が多様化してきたがこれらの問題はどんなに時代が進化しようが大衆の考えが変わろうが解決するのは難しいと思う。何故なら倫理基準は誰も決めることが出来ないからだ。全会一致でない限り、いや、全会一致であっても一生の課題となるだろう。
ここで代理出産を一例に挙げるとしよう。この問題において重要なのは倫理観だけでなく宗教や法律、科学といった様々な視点から考えるべきだということだ。既に日本で代理出産を行った病院は少なくない。しかしその度に世間からのバッシングが絶えなかったそうだ。母親の覚悟はどれほど計り知れなかったか。もし私が体内受精が不可能だったら、どんな選択を取るのだろう。

一体この世界は何が正解なのだろう。