私の生きる意味

生きる意味とは何だろうか。
私は私らしさが分からない。どの色にも染まることができるが、完全に一色に染まることは出来ない。アイデンティティの確立が曖昧であるからその都度、みんなの「らしさ」に溶け込んで生きている。人や環境によって色んな自分を表現するのは楽しいが、自我がないが故に、一人になった時に虚無というとてつもない恐怖が襲ってくる。

自分らしさが存在しない代わりに私は自分の経験をアイデンティティとして、個性の補完をしている。人生で経験した事実こそが真実であり、それが私であると自己形成を行っている。濃い経験であればあるほど私らしさがより強く形成されていく。それでしか私を表現出来ない。

私の「私らしさ」は何の意味を成すのか、随分もがき苦しんだ。私らしさであるこの経験を表現できる場は何処にあるのか。

これからも私の生きる意味を求めて生きていく。

私の人生そのものが私の個性である。

玄人と素人の境界にて

本物の玄人を望むのならば、心の拠り所となる無垢な存在に縋る行為は見苦しい。それはもはや傲慢である。

屑というジャンルにカテゴライズすることで逃避することができるがそれは屑ではなく、単なるだらしなさ故の行為である。
馬鹿な私でさえ見抜くことのできる私の「ワザ」は自らを裏切り、自らも欺くことが出来なければいづれ自分の身を滅ぼすことは知っている。

「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ。」
せめてこの言葉だけは忘れないでいようと思う。

仮想自殺

わたしの心は空っぽである。
私の日記はもう地球のごみになってしまったのだ。

もっと痩せてこの世界に存在する私の面積も小さくなってそのまま消えてしまえばいいのに。

最近青年期の死について深く考えるようになった。学生運動が減った今の世の中で、思想による仮想的自殺はもはや時代遅れであろう。しかし身体的自傷に限界が来た時おそらく私には、思想に取り憑かれる狂った姿に圧倒され異常な程の憧れを抱くだろう。例えて言うなれば、社会主義の渦に自ら呑まれることを選んだ太宰や、強いモダニズム思想と命とを天秤にかけた三島など、当時の学生は思想の中に自分の存在価値を見出していた。
では私の存在価値は一体何処にあるのか。
私とは一体誰なのか。

鮮血を見て生を実感するように自分の存在は自身の肉体でしか表現出来ない。だから今日も生を孕んだ肉塊をより感じられる施しを自ら選択するのだ。決して傷つけるためだけの手段ではない。守る手段でもある。
しかしどんなに物理的な施しをしても満たされないことは気づいている。だからこそ思想による仮想自殺を期待する。何かの思想に縋っていれば、自分の真の存在価値など考えることがないのだ。

どの思想が私を鮮やかに殺してくれるだろうか。

私は赤いランドセル

大切にしていた日記を捨てた。ポチャンと音を立て真っ黒い底へ呆気なく沈んでいった。これでいい。もう大丈夫。安心だ。これで私の心は守られる。誰にも知られたくないしもう誰にも脅かされたくない。一生懸命息をして存在していたのにこんなにも簡単に壊れるなんて、本当に無様で馬鹿馬鹿しかった。愛してほしいなんてそんな強欲さは必要ない。ただわたしが今ここに存在して必死に生きていることを認めてさえくれたらそれだけで幸せだ。愛してるなんて言葉は私の次に醜い存在である。

わたしは赤いランドセル。
いつの日か私は彼女とお揃いになっていつの日か私は彼女と共に息をしていた。あの日私は真っ赤に染まった。女の子の日だった。私のランドセルはお気に入りの赤色だった。他のどの色よりも濃くてお上品な赤色であった。私と彼女は弱くて脆い小さな背中をお互いに守っている。赤いランドセルを背負ってもう誰にも買われないように必死で守っているのだ。だからあの二枚は少しでも早く私の将来の希望に役立てるのだ。そして私達は絶対幸せになるのだ。


何事に於いても人生に期待してはいけない。

子宮

私たちが産声をあげるほんの少し前までは、みんなお母さんの子宮で眠っていました。私もかつては、お母さんの快楽の奥深くで眠っていた時期がありました。それはとても暖かくて心地の良い世界であったでしょう。私の臍の緒は小さな化石のように、とてつもなくちっぽけでした。一枚のエコー写真から覗く、子宮で蹲る私の小さな姿はひとつのいのちでありました。男の子でも女の子でもなくただ、それはひとりの人間でした。ああ、なんと恐ろしいのでしょうか。私の身体の中にもこんな生成機が備わっていると思うと一人間に所属しているという自覚から、個の喪失を感じました。それは悍ましくもあり、また素晴らしいことでもあります。快楽の上に生命が宿る。これは私にとっては矛盾するに値します。皮肉にも、奇跡は醜い行為に包まれて存在するのです。
汚れてしまったそこには生の乱用がきらきらと星のように散らばっていました。

透明の塊

その時、どろっとした透明の塊が落ちました。お風呂場に落ちたそれを私は指で掬ってみると、人間の性を感じました。それは恐ろしくとてつもなく悍ましい存在でした。私に排卵という機能は要らないはずなのにどうして股座から経血が流れるのでしょうか。
もっと子宮を痛めつけてください。もっと壊してください。

過ちを犯して身体を傷つけても世界はひとつも変わりませんでした。奥に異物が入る瞬間は何ひとつ感じませんでした。そこには恐怖も後悔も悲哀もなく、ただ一秒が経過していくのみでした。
ただ、変わったことといえば、小さな幸せを壊してしまったことです。

本当に情けないです。

幸福

耳が聞こえる。目が見える。味わえる。触れられる。
私は幸せだ。こんなにも感じることが出来る私は本当に幸せ者である。それなのに何故こんなにも強欲になってしまうのだろう。自制が分からないから、相手への配慮が存在しなければ何処までも後退してしまう。倫理的に、そして社会的に自分の立場が悪くなると分かっていても、自己犠牲が思考の終着点になると何も怖くない。失うものはもう無いからである。
自分を守ってくれる人の気持ちと自分をもっと抉りたい気持ちがせめぎ合って葛藤するようになった。「身体は大事にしてね」という言葉がずっと私を呪っている。自分の言った、「もっと、もっと」という言葉がずっと私を縛っている。
ふとした瞬間にもっと汚さねばという衝動に襲われる。しかし、私は現実から目を背けている。現実の幸せから逃げている。現実を認めるのが怖いのだ。それが幸せであっても否であっても現実が恐ろしくて堪らない。他世界に存在する自分がどう見られているか分からない恐怖に駆られている。みんなの中にひとりひとり違う私がいる。美しくない、薄っぺらい、優しい。色んな私の存在が認識できなくて怖い。どう足掻いても彼ら彼女の内在的意識を覗くことが出来ないから不安なのだ。